高知城   



 高知城は、もと大高坂城と言い、南北朝時代に大高坂松王丸が南朝に応じ、これに拠って北朝方と戦ったと伝えられる。
 戦国時代、長宗我部元親は土佐一国を平定、さらに兵を進めて四国を併合し、天正16年(1588)、ここに築城した。しかし城下に水難が多かったため、数年を経ず浦戸(桂浜)に移った。
 山内一豊は、関ヶ原の戦功により、遠州掛川・6万石から土佐・24万石に封せられ、慶長6年(1601)9月、百々越前守を築城奉行に任じて工事を起こし、2年後、本丸を完成した。
 享保12年(1727)、越前町より出火し、全城の大半を類焼。同14年(1729)再建に着手、慶長創建の姿にならって施工し、24年の歳月を経て宝暦3年(1753)11月に竣工して、現在に至っている。
 明治維新後、二の丸、三の丸の建造物を破壊し、本丸と追手門のみを残して、城域を整理し、花木を植え公園とした。明治6年(1873)県立都市公園となった。
 昭和9年(1934)1月、天守閣及び追手門の建物が国宝(現在は重要文化財)に、昭和34年(1959)に城域一帯が史跡に指定された。
 戦後は、各建造物の修理に着手。追手門は昭和26年(1951)に、天守閣は同30年(1955)に、その他の諸建造物は34年(1959)3月に、それぞれ改修竣工した。

  
 雑学:上士と下士

 土佐藩は上士(山内家譜代の家臣)と下士(郷士、用人、徒士、組外、足軽)との間に厳しい身分差があり、衣類、履物、笠の使用など細かい規則が定められた。そしてこの規則に背き、上士に対して無礼がないようにと、繰り返し命令が出された。その結果、上士の下士切り捨て事件が頻発した。
 例えば、寛政9年(1795)2月6日夜、宴席で上士、井上佐馬之進が郷士、高村退吾を無礼打ちする事件が起こった。だが井上の処罰は軽く、高村家に対しては上士に無礼を働いた過度でお家断絶が言い渡された。これに激怒した郷士達は団結して藩政府に圧力をかけ、井上の士籍剥奪、仁淀川以西追放という処分にさせたのである。これ以後、郷士達は同様の事件が起こると団結して圧力をかけるようになる。
 両者の確執は文久元年(1861)の井口事件で爆発した。3月4日の夜、宴席でしたたかに飲んだ上士の山田広衛と茶道方の益永繁斎が、井口村の永福寺門前を通行中、下士の中平忠次郎に突き当たった。酒に酔っていた山田は、その場で中平を無礼打ちにした。宇賀喜久馬の急報を受けた実兄の池田寅之進は、現場に駆けつけ山田と益永を斬り殺した。
 これを知った上士の一団と下士の一団との間で一触即発の危機を迎えた。大石弥太郎と門田為之助は下士達をなだめ、池田と宇賀を切腹させた。処置をした藩政府は山田の弟に小姓組相続を許し、中平と池田の家はいずれも格禄没収となった。
 このようにどんな理由かは問われず、処罰は上士に甘く、下士には過酷なものであった。そして、この事件が一つの引き金となって、同年8月の土佐勤王党結成へつながることになる。                       (北川村立中岡慎太郎館 豊田満広)
 
 雑学:山内容堂の藩主就任
 
 嘉永元年(1848)山内豊信(容堂は隠居後の号)は、分家から急に土佐藩第15代藩主となった。実は14代藩主豊椁は就任してから12日で急死した。本来なら後継者不在を理由に取り潰されるところである。だが、土佐藩は、初代藩主一豊が関ヶ原の合戦後土佐一国を拝領したこと、第2代藩主忠義の時に結ばれた徳川将軍家との姻戚関係及び松平姓の称号という特別待遇を受けていたこと。
 藩政府はこれを前面に押し出し、親戚筋である薩摩の島津斉彬ら有力大名の支援と老中阿部正弘の取り計らいによって、土佐藩の存続が認められた。
 この容堂の藩主就任における経緯こそ、山内家は徳川将軍家に恩義を抱いているため、「勤王」と「佐幕」との間を揺れ動いたと言われる理由である。                                         (幕末維新の土佐 探訪図会)